己をこの鳥籠に閉じ込めた兄──ギルベルト・バイルシュミットの様子が一頃前からおかしいことには気付いていた。元々突拍子もないことを言い出す性格だったが、そういうおかしさではない。普段と何も変わっていないかのようで、どこか取り繕われたような気配を感じるのだ。そんなことは今まで一度とてなかった。だからおかしいと感じたのだ。
 薄暗い地下聖堂には日が差し込まず、時を告げるものも置かれてはいない。それでも日時の感覚を保たせたのは、大抵同じ時間に持ってこられる食事だった。朝食が運ばれてくる度に床に日付を刻む、今ではそれが日課になってしまった。
 ルートヴィッヒは溜め息を吐き、もう完全に冷めてしまっているであろう食事に視線を遣った。囚人のような扱いの割、その内容は豪勢だ。ギルベルトの指示なのだろう。見た目にも美味しそうな皿の数々だが、とても食べる気にはなれない。極めて狭い鳥籠の中ですることもなく、腹は大して空かなかった。食材に申し訳なさを感じつつも、最近は手を付けないことが多くなっている。
 たまに顔を出しにくるギルベルトはその度に悲しそうに顔を歪めた。ならばここから出してくれればいいと思うが、その選択肢は存在しないようだった。兄が自分を見つめる時、その瞳は時折、助けを請うような色を帯びる。そのことは知っていた。陶酔のそれでなくなったのは、いつからだったろうか。
 その理由を知ったのは、ほんの数日前だった。ある夜、一人の男が着衣の乱れたギルベルトを連れてきた。匂い立つような濃い色香。胸元にはつい先程つけられたような赤い痕がついていた。そしてその男と後からやってきたもう1人は、ルートヴィッヒの目前でギルベルトを犯したのだ。我が目を疑った──明らかにそうされるのが初めてでない兄の様子、反応に。信じられなかった。常に涼しげな顔でここにやってきていたギルベルトが、一体いつからこんな。
 目隠しを外されルートヴィッヒの姿を確認した途端、ギルベルトは涙に濡れた瞳に絶望の色を映した。見るなという彼の言葉に反し、ルートヴィッヒは視線を外すことが出来なかった。うねる肢体、その鮮烈な艶やかさが一瞬で網膜に焼き付いた。この兄というのはこんなにも美しかったろうか。反射的にそう思った。いっそ悪魔的な妖艶さだった。
 あれ以来、ギルベルトは一度もここを訪れていない。運ばれる3度の食事で日にちを数える、単調な日々が続いている。ギルベルト以外に話し掛けてくるような者はいない。ただ時間が刻々と過ぎていくのに、ルートヴィッヒは焦躁のような奇妙な感覚を持て余していた。
 早くここを出なければ、と思う。誰から見ても暴走しているギルベルトを止めなければ、と。だがあの日から、解放を望む理由がそれだけでなくなった気がしていた。明確に何なのかは分からない。しかし何か、以前からとは違う感情がある。上手く言葉に出来ない、曖昧なもの。
 聖堂の壁を見つめてそんなことをぼんやりと考えているうちに、ルートヴィッヒの意識はゆるゆると眠りの波間に引き込まれていった。



 ふわふわと心地好い微睡みから引き摺り上げられたのは、声が聞こえた気がしたからだった。自分を呼ぶ声。助けを請う、声。
 ぱちりと目を開くと、視界には変わらぬ聖堂の様子が飛び込んできた。鳥籠の鉄柵越しの光景だ。いつもと何ら変わりない。自分を呼ぶ者も、どこにもいない。
 夢の中の誰かの声を現実のものと聞き違えたのだろう。小さく溜め息を吐き、ルートヴィッヒはぐっと伸びをした。今は何時だろうか。新しい食事が持ってこられた様子はないから、深く眠り込んでしまっていた訳ではなさそうだ。何か時間を知る術はないか。寝起きの頭をしゃんとさせようとしているところで、急に凄い勢いで扉が開かれた。
 年代物の蝶番が耳障りな悲鳴を上げる。ともすれば外れてしまうのではないかと思う程の荒々しさだった。だが誰かが入ってくる気配はない。その代わり、何か湿ったものが落ちる鈍い音がした。
 それから石畳を蹴り付けて走る、軍靴の音が幾重にも重なる。くぐもった音。押し殺した苦鳴。済んだ金属音。どちゃりと何かが落ちる音。がりがりと引き摺る音。そして、ゆったりとペースを変えずに響く一つの足音。
 かつーん、かつーん、と、それは振り子時計のように正確なリズムを刻んでいた。そしてそれが、まるで静かな乱戦のような物音を引き連れているようだった。何者かは少しずつ近付いてきているらしい。逃げることなど出来ぬ鳥籠の中、ルートヴィッヒは反射的に身構えた。
 音が次第に近付く、明瞭に大きくなっていく。それに連れ、不穏な臭いが鼻に届き始めた。
 まずは生暖かい外気の臭い。次いで鉄錆びた臭い。硝煙の臭い。それから、生臭い血の臭い。
 明らかに戦闘が行われていなければ漂いはしない臭いだ。ルートヴィッヒは困惑に眉根を寄せた。ギルベルトが率いているからには、仲間割れの可能性は極めて低い。敵に攻め込まれたということもまずないだろう。ならば何故、この奥深くの地下聖堂にそんな気配が近付いてくるのか。訳が分からなかった。そして不可解は恐怖を湧き起こす。
 ありもしない武器を探って、ルートヴィッヒの手は空を掻いた。もしも戦うべき敵であるならば、何もしないなどということが許される筈がない。しかし武器なしで、この鈍った体はどこまで動くだろうか。戦場に於いてはハンデを考慮して攻撃を仕掛けてくれるようなお優しい輩はいない。
 ばたばたと乱雑に走る音が聞こえ、開け放たれた扉から男が聖堂に飛び込んできた。右手に拳銃、左手は負傷しだくだくと血を流す脚を庇っている。男は軍服を着ていた。見慣れた、自軍のものだ。本当に、一体何が起こっているのだろうか。一目散に自分の方に向かってくる男に、ルートヴィッヒは声を掛けようとした。
 だがその直前、男はぴたりと足を止めた。切羽詰まった表情になり、自棄糞といった様子でばっと背後を振り返る。当然のように右手の拳銃が扉の向こうに向かって突き出されていた。そして、音。あの足音だ。妙に整ったリズム──かつーん、かつーん。
 その音に男は声にならない呻き声を漏らし、ほとんどデタラメに引き金を引いた。的を絞らない連射。数発が聖堂の壁を砕き、数発が扉に撃ち込まれ、そして残りの数発が扉の向こうで何かに弾き落とされた。
 銃弾が弾き落とされるなどという夢か映画のような光景を、ルートヴィッヒは初めて見た。男とてそうだったろう。彼は慌てて更に発砲しようとしたが、その銃倉に弾は残っていなかった。がちがちと空発の音が繰り返される。その音は男の焦りと絶望を現しているようだった。そして正にその通りだった。
 かつーん。足音の持ち主の半身が扉から覗く。
 かつーん。その全姿がルートヴィッヒの視界に入る。
 その次の瞬間、扉からかなり離れた位置にいた筈の男の体が分裂していた。腹を境に、上半身と下半身。悲鳴を上げる暇も与えない神速の斬撃。切断面から血と内臓を滴らせながら、男が地面に這った。どちゃり。
 ルートヴィッヒは目の前の惨劇に釘付けになっていた。もっと正しくいうのならば、それを行なった人物に。どろどろに汚れたコートを肩に引っ掛けた、己の兄の姿に。
 ギルベルトはしどけない裸体を晒していた。その肌を覆うものは肩に掛けたコートと緩く穿かれたブーツしかない。不健康的ですらある白雪の如き肌には、無数の情交の痕と傷が付けられていた。尻の狭間から伝い落ちたであろう汚液が、内腿に不格好な模様を描いている。そしてその手には大剣が。ギルベルトの痩身には不釣り合いな大きさのそれが、握られている。血に濡れて刃の色を不明瞭にしている。
 かつーん。暫し歩みを止めたギルベルトが、また一歩踏み出した。天井の高い聖堂ではその靴音がより高らかに響く。だが猛き騎士に畏敬の目を向ける者はない。気不味いような緊張感が満ちた静寂が落ちるのみだ。
 と、不意に死角から弾丸が飛来した。ほぼ無音のそれは正確にギルベルトの頭部に向かって飛来する。危ない、とルートヴィッヒは声を上げ掛けた。しかしいらぬ心配だった。ギルベルトは無造作に腕を振り上げ、剣を振るった。鈍い音が上がり、弾丸が叩き落とされる。きぃんと澄んだ音を立てて弾丸は床に転がった。
 ちらりとギルベルトが視線を遣る、その方向から2人が武器を手に躍り出してくる。一閃。飛ばされた首がくるくる舞って壁に激突し、斬新な血のアートを描いた。額から顎までを綺麗に割られた男が、音もなくその場に崩れ去った。
 思わず気分が悪くなる死体に何を思った風もなく、ギルベルトはまた足を一歩踏み出す。かつーん。
 そしてとうとう彼は、ルートヴィッヒの目前、鳥籠の縁にまで辿り着いた。血化粧を施された顔。その中でなお、より生々しい色で紅い瞳が煌めいている。ギルベルトはゆっくりと瞬きをした。それから全く手が付けられていない食事を目にし、目を眇めた。

「また食べなかったのか」
「……兄さん、」

 何を言うかなど考えていない、つい口から出た言葉をギルベルトは手で遮った。口を塞ぐようにして、だが決して触れはせずに。その顔は深い悲哀を称えている。慈しみをも。その場に不似合いなくらいに落ち着き払った表情が、ルートヴィッヒの心をざわめかせる。
 ギルベルトは最早必要ないというように大剣を放り出した。派手な音を立ててそれは床に転がった。うっすらと笑うギルベルトの唇を、誰のものとも知れぬ血が彩っている。
 ギルベルトは徐にコートのポケットに手を突っ込んだ。そこから引き出されるもの。骨董品のP38。ギルベルトが嘗て愛用していた銃。まだ持っていたのかという思いと共に、強烈な恐怖感が迫り上がった。気が付いた時には叫んでいた。

「駄目だ、兄さん!」

 自分の顎の下にぴたりと銃口を突き付けたギルベルトは、引き金を引こうとしていた指を止めた。気紛れにそうしてみたというような様子だった。気が向かなければそのまま自分の頭を吹き飛ばしていたというような様子だった。その顔からは覆しようのない決意が感じられた。だがルートヴィッヒは止めずにはいられなかった。止めないことなどどうして出来ただろうか。

「……お前のことはちゃんと手を回してある。何も心配いらない、大丈夫だ」
「何を考えているんだ! どうして貴方が」
「どうして? そんなことは決まり切っている、あの時に既に決められたことだった。俺はこれ以上もう耐えることなど出来ないし、これ以上、お前を汚すことなど出来る筈もない。ヴェスト、なぁ、そうだろうヴェストよ、俺の大切なヴェスト…だからもう終わりだ。Wir sehen uns bald wieder」
「っ、兄さん!」

 乾いた音が空気を震わせた。
 ずるりとギルベルトの体が前にのめる。倒れ込んでくる。その体をルートヴィッヒは咄嗟に抱き留めた。血に濡れた頬に一筋、透明な雫が伝っていた。
 そこに無数の雫が振り掛り、少しずつ血の色を薄めていく。ルートヴィッヒは嗚咽を押し殺し、ギルベルトの体をキツく抱き締めた。久し振りに触れた兄は、久し振りに見る穏やかな顔で静かに目を伏せていた。



Traeum suess...