手が動いて、ぐしゃぐしゃ髪を掻き混ぜられる。普通に表現すると、頭を撫でられる。尻尾を振りそうになって、慌てて止めた。どうせコートに隠れて見えないとは思うけど。

「そう怯えるな。取って食ったりする訳じゃない」

 低い、落ち着いた声音が耳を擽る。手、気持ちいいな。撫でられたのなんか初めて、かも。
 って、違う違う何考えてるんだろう俺。撫でられたくらいで懐くとか、どれだけ容易いんだよ。あぁ、けど、抱き付いてみたいな。ぎゅってしてくれる、かなぁ。どんな感じなんだろう、そういうの。
 出方を窺うみたいにじっと見つめていたら、男はふと考えるような表情になった。続いて口が動いて、紡がれたのは思いがけない言葉。

「お前、名前は?」
「ふぁ?」

 思わず変な声が出てしまう。
 名前──名前、何だっけ。昔呼ばれてたことがある気がする。だけど、思い出せない。前の、その前の飼い主だって名前なんか聞かなかったし、呼ばなかった。覚えていないと困ることが特になかったから、忘れてしまったんだろうか。そもそも俺に名前なんてあったのか、そこから分からなくなってくる。
 しゅんと耳を垂らすと、男は不可解そうな表情を浮かべた。ないのか、口の中で呟かれる声を俺の耳は捉える。押し黙った男は、その綺麗な碧で俺を見据えた。そこに過ぎった感情は何だったんだろう。俺には、分からない。

「名前がないのは不便だろう。もしお前がよければ……ギルベルト、と呼んでも構わないか?」
「ギル、ベルト?」

 繰り返すようにして口にした名前は、何故か妙に舌に馴染んだ。ギルベルト、ギルベルト。どっかで聞いたかな。記憶にはない、けど、やけにしっくりくる。
 一文字だって自分の名前らしきものを覚えていないんだから、与えられたそれに良いも悪いもなかった。こくりと頷いて了承すると、男は僅かに表情を緩めた。何だ、そういう顔も出来るんじゃん。ずっとそうしてればいいのに。そうしたら俺だって少しは、ってだから何考えてんだよ俺。これくらいで絆されたりしないんだからな、多分。

「なぁ、」

 俺はふと気付いて声を上げる。俺、こいつの名前、知らない。それらしいものを聞いたには聞いたけど、教えてもらってはいない。

「あんたの名前、何ていうんだ?」
「……ルートヴィッヒ。ルートヴィッヒ・バイルシュミットだ」

 ルートヴィッヒ。
 う、呼び難い。俺は舌の上で告げられた名前を何度も転がす。ルートヴィッヒ、ルートヴィッヒ、ルートヴィッヒ……… ルッツ?
 さっき一緒にいた奴もルートって呼んでたし、愛称の方が呼び易いんだけどな。呼んでもいいかな。でも怒られたら嫌だし、怖い。

「あの…さ、ルッツって呼んでも、いいか?」

 そう怖々と口にすると、男──じゃなかった、ルートヴィッヒは物凄く微妙な顔で固まった。え、俺、何か変なこと言った? やっぱいきなり愛称で呼ぶとか、許してくれる筈ない、か。聞かなかったことにして、という言葉を俺の口が紡ぐことは終ぞなかった。我に返ったらしいルートヴィッヒが、破顔したから。
 っ、それ、反則。



 もこもこふわふわ、真っ白な泡が量産されていく。俺は風呂に入って、というか入れられていた。流石に体は自分で洗ったけど、髪を洗うのはルートヴィッヒに取り上げられた。
 わっしゃわっしゃわっしゃ。擬音にすると荒々しそうなのに、手付きはあくまで丁寧で優しい。
 ルートヴィッヒはぺたんと床に座った俺の背後で膝をついている。上着は脱いでシャツの袖は捲り上げられているのだが、ズボンは足首までを覆っていた。高そうな布地が濡れるのをルートヴィッヒが気にする様子はない。染みとかついたら取り換えしつかなくなるかもしれないとか、思わないのかな。
 小さく耳を動かすと、ふわりと泡が落ちてきた。消えずに空気中に漂うそれに息を吹き掛けてみたりして──俺の視線はふと、目前の鏡に向いた。正確にはそこに映っている自分の姿に。
 泡から覗く髪は白みたいな銀色、水が入ってちょっと充血してる目は紅色。ブローカーなんかは月光の色だとかルビーの色だとか薄ら寒いことを言うけど、俺には冷たい雪と血の色にしか見えない。生まれてこの方ずっとこの色で生きてきた筈なのに、何だか見慣れなくて気持ち悪い。本当に変な話だけど。
 ルートヴィッヒの指に促されて俺は顔を仰向ける。髪を濯ぐんだとは分かっているけど、無防備に喉を晒すのはまだ怖い。きゅっとノブを回す音がして、丁度いい熱さのお湯が泡を洗い流していく。マッサージするみたいにされて自然に緊張が解れる。
 ルートヴィッヒって心読めるのか? それとも顔に出てたかな。はふ、気持ちよさに息を漏らすと、くすっと笑う気配があった。何だよ、何がおかしいんだよ。俺は少しだけ唇を尖らせる。鼻にも掛けられてない、何か悔しい。
 むっすりしていると暫くしてシャワーが止められて、ルートヴィッヒが立ち上がる気配がした。仰ぎ見ると、伸びてきた手が泡が残ってないのを確かめるみたいに頭を一撫で。

「きちんと温まってから出てこいよ」

 ルートヴィッヒの指が俺とは違う場所を指し示す。頭を振って水気を飛ばしてからそっちを向くと、異様に大きなバスタブがあった。所謂バスタブではない、床面に埋め込むようにして設えられたそれはローマ風呂みたいだ。張られたお湯が仄かに湯気を上げていなければ人口池に見えなくもない。
 捲っていた袖を戻しながら出ていくルートヴィッヒを見つめつつ、俺は爪先をそぅっとお湯に入れる。シャワーよりも少しだけ熱い、けど心地良いくらいの温度が体を包む。うん、平気そう。自分でも何を確かめてるのかよく分からないまま、俺はお湯に体を浸した。
 ぼんやり水面を眺めていると、次第に体が温まってくる。頭に過ぎるのは今までのことだ。薄暗くて冷たい部屋ともいえない部屋の中、向けられるのは好奇と蔑みの目ばかりだった。手酷く扱われて、泣いても叫んでも救いの手なんて差し延べられなくて。上辺だけの気遣う言葉さえ掛けられることはなかった。まるでそう扱うのが正しいのだというような仕打ち。人間は皆そうなんだと思っていた。
 けど、ルートヴィッヒは、違う。暗くも寒くもない部屋、触れてくる手は酷く、優しい。だから俺は少しだけ、恐怖する。痛かったり苦しかったりはまだいい。絶対にいつかは終わるし、獣人の俺は怪我だってすぐ治る。永遠に続くなんてことがないから耐えられる。束の間の安息に希望を見出だすことが出来る。
 でも無条件な与えられる幸せ、優しさ、温もりは、違う。それは必死で築き上げた心の防波堤を瓦解させてしまう。一瞬でも長く続けばいいと思ってしまう。今までに決して手に入らなかったものを甘受するのは、未知の行為だ。もしそれに慣れて当たり前のように感じるようになったら、急に取り上げられた時に俺はどうなってしまうんだろう。
 俺はきっと──きっと、耐えられない。元の苦しくて辛い環境に戻ることなんか出来ない。だから、ルートヴィッヒの優しさが、怖い。ルートヴィッヒに手の平を返されたら俺は、俺は。

「信じて、いいのかよ……なぁ、ルッツ」

 呟いた言葉に返る声は、ない。


◆ ◇ ◆


 夜更けの自室でルートヴィッヒはぼんやりと煙草を燻らせていた。視線は机の上、そこに置かれた写真立てに注がれている。和やかな夕食の後、疲れたのか眠そうにしていたギルベルトを寝室に送っていってから2時間程になるだろうか。あの部屋で彼が寝ているのだと思うと心が軋んだ。
 ルートヴィッヒは深く溜め息を吐き、吸いさしの煙草を灰皿に捩じ込む。代わりに手にするのは机上の封筒、つい先程部下が持ってきた調査資料だ。



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