「フェリシアーノ、部屋を一つ借りても?」
「なぁに、内緒の話? 用意終わってる筈だからいつもの客室使っていいよ」

 箱を見留めたフェリシアーノが含みのある笑みで答えを寄越してくる。ギルベルトのことを歓迎しながら、彼もまた、ロヴィーノと同じで全面的にその存在をよしとしている訳ではないのだ。
 フェリシアーノの場合、兄とは違って直感やそういった類のもので判断した結果ではあるけれど。ただ彼の怖いところは、その直感がほとんど外れないことだ。大占い師も真っ青の的中率には敵だけでなく味方も一目置いている。勿論ルートヴィッヒも。
 ギルベルトを連れて客室に向かいながら、ルートヴィッヒはずっと背中にフェリシアーノの視線を感じていた。



 よく使わせてもらう客室には、既に持ってきた荷物が運び入れてあった。荷物と言っても着替えや細々した日用品が少しばかりな為、それ程多くもない。ギルベルトにも別に部屋が用意されており、彼の荷物はそちらに行っているから、置いてあるものの大半は元々この部屋にあるものだ。
 ルートヴィッヒはソファに腰掛けると、自分の隣の座面をぽんぽんと叩いた。ここにおいで、と子供にするような仕草だが、ギルベルトに気にした様子はない。寧ろ嬉しそうな気配さえ見せて隣に納まってくる。近過ぎも遠過ぎもしない、絶妙な距離だ。
 買い上げた当初は間に人が2人も座れる程だった。それが打ち解けるに従って、少しずつ少しずつ詰まっていった。ギルベルトがごく間近に抵抗なく来るようになったのは意外に最近のことである。その距離を、また大きく離してしまうかもしれない。そう考えるとルートヴィッヒは一気に憂鬱な気分になる。
 それならば渡さなければいいと思いもした。しかしそうもいかないのだ。申請と登録はもう済んでしまった。受理はすんなりといっても削除はすんなりといかないだろう。何せそういう趣旨の制度なのだから。圧力でも掛ければ簡単に解決する問題だが、権力や財力は安売りするものではない。ここぞという時に効果的に使わなければ。
 そっと息を吐き、ルートヴィッヒは箱の蓋を外していく。興味津々に見つめていたギルベルトの目が現れた物を捉える。
 それは正しく、どこからどうみても首輪だった。
 黒の鞣し革に銀の金具。余計な装飾のない、ごくシンプルなもの。とはいえ素材から形状から指定して作らせたものだから、首輪にしては法外な額がかかっている。
 そこまでしたのは常に身に着けることになるからだ。出来るだけギルベルトに不快な思いをさせたくなかった。だから革は肌触りのいいものを、金具は重くないものを選んだ。縛り付けたい訳ではないのだ、決して。ギルベルトにこの首輪を嵌めることが即ち、ギルベルトを自分の所有物だと主張することであったとしても。
 何も言おうとしないルートヴィッヒにギルベルトは困り顔になる。それから怖々とルートヴィッヒの手に自分の手を重ねた。

「つけて、くんねぇの? これ」
「いいのか?」
「ん、」

 確認の言葉に振られる首の方向は縦。向けられる視線はどこまでも真っ直ぐで真剣だ。無理をしている様子はない。
 ルートヴィッヒはゆっくりと首輪を取り上げ、ギルベルトの首に回す。生白い肌に、それはやけに重々しく映った。しかし実際のところ軽いそれは、手を放してもギルベルトに不要な負担を強いることはなかった。
 試すように軽く身動きをしたギルベルトが、ふっと表情を緩ませる。ぱたぱたと尻尾を振りながら擦り寄ってくるのがおかしくて、ルートヴィッヒは苦笑を漏らす。こんなもの、与えられて嬉しい筈もないだろうに。だがその反応はルートヴィッヒの気持ちを少しだけ軽くさせた。こうしたのは間違いではなかったと、そう思わせてくれた。
 間近にある旋毛に僅かに口付けると、擽ったそうにくふくふと笑いが零される。そっと絡められた指を握り返そうとした時──お前ら何してんだ、というロヴィーノの声と共に部屋の扉が開かれた。
 転がり込むようにして室内に入ってくるのはフェリシアーノとアントーニョだ。目が合うと2人は微苦笑を浮かべる。

「盗み聞きしてんじゃねーよ、全く」
「ヴェーだって気になるんだもん」

 理由になってないぞちくしょー、言いながらロヴィーノがちらりとギルベルトに目を向ける。首に自分の渡した首輪が嵌っているのを見取ると視線はすぐに外された。
 フェリシアーノと一緒に怒られているアントーニョの首にも、首輪はきちりと嵌められている。真っ赤なエナメルのそれはやはり特別製で、いつだったかロヴィがくれたんやでー、と嬉しそうに話しているのを聞いた気がする。その時のアントーニョといい先程のギルベルトといい、ルートヴィッヒには反応が不可解でならない。もし自分が彼らの立場なら嫌だと思うのだが。
 人間と獣人の思考の格差などないだろうに、どうしてそうも態度が違ってくるものか。ルートヴィッヒは首を傾げるばかりだった。



 所用で遅れていた菊が夕食前に滑り込んできて、騒がしいながらも和気藹々とした雰囲気に一段と拍車が掛かる。その勢いは夜通し語り明かすかと思わせる程だったが、夜が更けるに従って次第に脱落者が出始めた。フェリシアーノが大きく欠伸をしたのを皮切りに、それぞれ就寝の準備に入ったのが40分程前だったろうか。客室の一つ──と言ってもすぐ隣の部屋である──でギルベルトにおやすみと告げてからは10分余りが経過している。
 何となく口にしていた煙草を灰皿に突っ込んで、ルートヴィッヒは寝床に入ることにした。訳もなく夜更かしをするような趣味はないし、明日は仕事の予定がある。寝不足で下らないミスをすることは許されない。毛布をずり上げてナイトスタンドのスイッチに手を伸ばす。
 その刹那、控え目なノックの音がルートヴィッヒの耳に届いた。もう寝ようということで意見を一致させておきながら、一体誰がやってきたのだか。心中でやれやれと溜め息を吐きつつも入室を許可する。
 そろりと僅かに扉を開けてその隙間から顔を覗かせたのは、ギルベルトだった。瞳に不安げな色が宿っているのに気付き、ルートヴィッヒは彼を手招いてやる。後ろ手に扉を閉めてからギルベルトはとたとたと距離を詰めてくる。手には縋るように毛布が握られていた。

「どうした?」

 努めて優しい声音で問うと、紅色の瞳はゆっくりと瞬いた。もにゅもにゅ口を動かして言い難そうにするのを無言で促す。ギルベルトは頬を朱に染めながら躊躇いがちに口を開いた。

「初めてのとこ、何か怖くて…だから、その、……一緒に寝ちゃ駄目か?」

 一瞬何を言われたのか分からなくて固まってしまう。
 誰が誰と一緒にどうすると?
 聞き間違いでなければ、自分と一緒に寝たいと言われたような。いくらギルベルトが細いとはいえ、成人男性が2人同じベッドで寝るにはかなりぴったりくっつかなくてはいけないのでは。
 まじまじと見返すとギルベルトはぎゅうと毛布を握り締める。幼子が怖い夢を見て夜中に目覚めてしまったような様子に、ルートヴィッヒの心はぐらつく。

「駄目なら1人でちゃんと寝る、から…」

 しゅーん、と如何にも効果音がつきそうな風にギルベルトは耳を伏せ尻尾を垂れさせた。
 ぐらりぐらり、ルートヴィッヒの心は揺れる。それはもう、マグニチュード8を軽々と超える地震の如く。
 甘えていいと彼に言ったのは、確かに自分だ。叶えて欲しいこと、望むことがあれば遠慮せずに言えと。多少無理な要求だったとしても、ルートヴィッヒは応じてやるつもりでいた。それが、それだけが、ギルベルトに対して自分が出来ることだったからだ。けれど要求が口に出されることは余り──というかほぼなく、言ってきたと思ったら一緒に寝てもいいかときた。
 本人が言う通り、理由は単に心細いだけなのだろう。密室に1人でいるという環境をギルベルトは極端に嫌う。
 叶えるのに何の苦労もいらない望みだ、一見には。ただJaと頷いて、床に招き入れてやるだけでいい。だがルートヴィッヒはそれを安易にするのを躊躇った。
 ちらりと視線を遣る、ギルベルトは半裸である。柔らかい織りのパジャマをの上を緩く身に纏っているだけで、白磁の脚が無防備に投げ出されている。そうしていて寒いような時期ではないし、そういう格好で眠る者も珍しくはない。しかもルートヴィッヒは連れ帰った当日にギルベルトを風呂に入れている。
 の、ではあるが。目の遣り場に困るというか、気不味いというか、何というか。
 もやりもやりとした気持ちが心中に蟠るのを感じながら、ルートヴィッヒはごく小さく溜め息を吐く。それから毛布をはぐり、自分の横を叩いた。

「おいで」

 ぱあっと顔を輝かせ、ギルベルトが隣に潜り込んでくる。
 無防備な格好をした彼が万が一にでも風邪を引かないようにときちりと毛布を引き上げてやる。ふわふわとした尻尾が体に触れるのを感じながら、ルートヴィッヒは今度こそナイトスタンドのスイッチを切った。