少し前に彼は家にやってきた。そう言うには多少の語弊があるだろうか。無理矢理につれてきたようなものなのだから。それからイヴァンは甲斐甲斐しく──あくまで彼なりに、だ──世話を焼いたが、彼は一向に靡く気配がなかった。まるで高飛車な猫のようだ。本当に強情で意地っ張りで、実に苛め甲斐がある。
 しかしイヴァンは同じようなやり取りに飽きてきていた。彼は相変わらず何をしても絶対に屈したりしなくて、少しだけ苛立ちさえ覚える。どうしてそんなにも頑ななのか。それは、あの人が、いるから?
 そう考えると胸がムカムカした。こんなに遠いところにいるのに、心は離れていないなんて。そんなのは、許せない。ズルズルと続けてきた関係を、イヴァンは壊してしまうことにした。

「ねぇ、ギルベルトくん」

 声を掛けるとぼんやりと虚空を彷徨っていた瞳がのろのろと上を向いた。鎖で壁に繋がれ膝立ちの姿勢でイヴァンを見る彼の瞳は、血を凝り固めたような紅。つれてきた時は鈍い金色だった髪も、今では随分色が抜けて銀に近い。
 前の彼も綺麗だったけど今の彼も綺麗だ、とイヴァンは思う。思わず踏みにじって這い蹲らせたくなる。それに前の色はあの人を髣髴とさせたから、変わってしまってよかった。彼を見る度に彼の支えになっているあの人の影を見ずに済む。

「君はさ、」

 一歩一歩、イヴァンは壁際の彼に歩み寄る。今度は何をするつもりかと、怯えなど微塵も臭わせない瞳がイヴァンを見据える。強かな、血の紅。
 それを見る度に、それに見つめられる度に、イヴァンは堪らない衝動に駆られる。それが何なのか、今までに感じたことのない類のものだから、イヴァンには分からない。ただ分かるのは彼を目茶苦茶にしてやりたい、という欲望だけ。

「ルートヴィッヒ君が助けにきてくれるとでも思ってるの?」

 そんなこと起きる訳ないよ。彼はとっくに君のことなんか忘れて、資本主義の人たちと仲良くやってる。やらなきゃいけないことが沢山あって、君のことを考える暇なんてないんだ。記憶なんて案外すぐに薄れていくものだよね。顔も見ない名前も聞かないような状況じゃ、もう他の皆にも忘れられちゃってるよ。だから誰も君を助けになんか来てくれない。望みなんて早く捨てちゃいなよ、ねぇ、ギルベルト君。
 思い付くままに、一方的にイヴァンは喋った。彼は最初こそ反抗的な表情を浮かべたが、次第にそれが不安げなものに変わっていった。自分が皆に忘れられていくところは、彼になら容易に想像出来ただろう。彼は今ではもう忘れられてしまった者を何人も知っている。そんな風に自分が忘れ去られたら、と考えて不安にならない者などいないだろう。誰かに覚えておいてもらいたい、と考えるのは当然の欲求だ。

「君はここで朽ちて逝くんだよ」
「……だ、」

 彼が細い吐息の合間に呟いた。何だろう、とイヴァンは首を傾げる。そういえば苦鳴以外で彼の声を聞くのは久し振りだ。
 口答えしかしないものだからその度に黙らせていたのが効いたんだろうか、最近の彼は悪態を吐かない。その代わりに目が口程に物を言うのだ。あの血みたいに紅い目が。

「ギルベ、」
「…ゃ、だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁ!」

 ガチャガチャと鎖を鳴らして彼が叫ぶ。漸く箍が外れたかな、とイヴァンはうっそりと笑う。彼の見開かれた瞳にはうっすらと涙の膜が張っていた。彼が見ているのは一体何だろう。やはり──ここにはいないあの人?
 脳裏にその姿が過ぎって、我知らず眉間に皺が寄る。イヴァンはまた一歩、彼との距離を狭めた。
 嫌だヴェスト忘れないでヴェストヴェストヴェスト俺にはお前しかい、
 懇願する絶叫を、イヴァンは彼の首を絞めることで遮った。グッと喉仏の上にある親指に力を込める。細い首だ、ほんの少しの力でも折れてしまいそうな。ひゅ、と酸素を求めて彼の喉が鳴く。イヴァンは先程とは違う理由で涙が浮いた瞳を覗き込んだ。

「僕のことを見ないギルベルト君なんていらないよね。だから、死んだら」






きみのしんぞうをぼくにください
(それで決して手に入らなかった君の心を手に入れた気になるの)






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