膝を抱えて蹲って、押し殺した息を吐く。部屋の隅で毛布にくるまってそうするのは、もう習慣と化した行為だった。何があった訳でもない。何もなかった訳でも、ない。
静寂に包まれた部屋の中で、息は潜めているに拘らずやけに大きく聞こえた。それを煩わしく思う。もっと気配を消してしまわなければならないのに。もっと、もっと存在をないものにしてしまわなければならないのに。
それは欲求や意志というよりも、最早脅迫観念に近かった。成し遂げなければ、また奴は現れるから。いつものように笑って、嗤って、そして──。
自分の想像に体は強張り呼吸は早くなる。先のことは考えるな。慌てて思考に蓋をして、また息を押し殺していく。次第に規則的に落ち着いていく呼吸、けれどもう手遅れだということを俺は薄々感じ取っていた。
こつ、こつ、と廊下を歩く足音。硬い軍靴の底が、硬い床を打ち付ける音。それは俺にとってみれば、悪魔の足音以外の何物でもなかった。ひゅく、と喉が引き攣れる。また鼓動も呼吸も早くなってしまう。折角収まってきていたのに、今日は大丈夫だと思ったのに。
耳障りな音を立てて扉が開かれる。細く開いた隙間から覗く目は、爛々と嫌な光を宿していた。ぞわっと背筋に悪寒が走る。俺は無意識にキツく毛布を握り締めて、より体を小さく丸めた。無駄だと、知っているけれど。そうするより他には出来なくて。
こちらの様子を暫く窺った後で、そいつは、イヴァンは室内に踏み込んできた。部屋と言ったって粗末なベッドとクローゼットがあるくらいで、正直牢獄みたいなものだ。落ち着ける場所も隠れる場所もない。間近までやってきたイヴァンは、薄紫の瞳で俺を見下ろして、笑う。声もなくただ静かに、唇を歪めて。
「またこんなところで蹲ってるの、ギルベルト君?」
そう言った声は、まるで歌うような調子だった。顔に張り付いた表情とはとてもじゃあないが合致しない。俺は上げていた視線を床に落とす。それは返答ではなく、拒絶だった。何をしにきた早く帰れと無言で吐き捨てるような。
イヴァンは表情も雰囲気も何もかもを変えないまま、徐に腕を持ち上げる。自然に背後に回していた、それを。手に何が握られているのか、俺には見なくとも分かっている。だから反射的に歯を食いしばった。
がんっ、と蟀谷に衝撃。振り下ろされたのは言わずもがな、ご愛用の水道管だ。どこかから引っこ抜いてきたそれに、液体が纏わりついている。何かは、考えなくても分かる。
血だ。誰のかも、考えなくても分かる。俺のだ。
強い力で打ち据えられた蟀谷は、ずくずくと鈍い痛みを発しながら熱い体液を垂れ流していた。額周りってのは、傷が浅くても大量に出血する。そんなことくらい知ってるだろうに、イヴァンは容赦や遠慮などしやしない。元々そんなお優しい機能、ついていないのかもしれないが。
俺は深く長く息を吐き、目を閉じて、感覚を殺していく。正常な意識や感覚を残していたら、これから起きることには到底耐えられないから。きっと狂ってしまうから。
…いや、俺はもしかしたらもう、狂っているのかもしれない。
「まだそんな態度が出来るなんて、君って本当に強情なんだね」
言いながら手が俺の服を引き剥がす。肌の上を這い回る。背中を預けた床は冷たく、体温を急激に奪っていく。けれど無機質であることに徹すれば、それさえもが曖昧で遠い感覚になった。俺の目は確かにイヴァンを、その行為を映している。でもただ、それだけだった。
何も感じない、何も思わない。それが俺に出来る唯一の抵抗なのだ──こうなってしまった時は、唯一の。反応するから喜ばれる、味を占められる。ならば反応などしなければいい。俺はそう思ったし、事実イヴァンは前程にはテンションを上げなくなった。顔に過ぎるのは寧ろ、苛立ちのようなもので。
俺はぼぅっとそれを見つめる。焦燥に駆られたみたいな顔、歯軋りをしてイヴァンが口を動かす。
「こんなに悦んでるのに…何で認めないの?」
言葉は確かに聞こえている筈なのに、どこかふわふわと覚束なかった。いまいち言葉の意味が掴めない。言葉ってどうやって理解するものだったっけ。どうやって組み立てて、どうやって喋るものだったっけ。
頭の引き出しを漁って、求める答えを探す。けれどそれが入っていた筈の場所は、何故か空っぽだった。何でだろうと考えてみて、すぐに気付く。捨ててしまったんだ、自分で。必要ないいらないいらないこんなもの、いらない。あいつの声が言葉が聞けないなら、あいつの為に喋ることが出来ないなら。
あいつって、誰、だっけ。その答えも探すけど、それが入っている筈の引き出しは開かなかった。何度引いても開かなかった。あぁ、鍵、かけたんだったっけ。辛くなるから、寂しくなるから、どうしようもなく、怖くなるから。思い出さないように、したんだっけ。
そっか、だから分からないんだ。
「ちゃんと見てよ。ちゃんと僕を見てよ、他の誰でもない僕を」
向こうで誰かが何か言っている。聞こえているけど俺の耳には届かないし、意味も理解出来ない。だから何も言い返さない、反応しない。そうしていると大概、これはすぐに終わるから。身を任せて全て投げやりにして。そうした方が痛くも苦しくもないって、俺は知っているから。
視線を彷徨わすと、すぐ側に綺麗な対のアメジストがあった。それは俺を見つめて、ゆっくりと細められる。近付いてくるのにぞっとするけど、逃れることは出来なくて。それでも想像して怯えたような痛みは、なかった。ぽす、と肩口に触れる、さらさらふわふわした感触。啜り泣くような音が耳元で上がる。
「ねぇ、お願い、ギルベルト君…」
掠れたそれは懇願であったようにも思う。俺はゆっくりと目を閉じて、それさえもを意識から締め出した。
その後のことなんて、よく覚えていない。
最初に消えたのは痛みだった。それから涙とか、感動とか、驚きとか、色々なものが消えていった。残ったのは俺の外側だけ。
外側、だけ?
本当に残ったと言えるのだろうか、俺の外側というのは。ほとほと疑問だ。だって髪の色も目の色も、すっかり変わってしまった。前の外側らしい部分なんて、ちっとも残っていやしない。じゃあ俺には何が残っているんだろう。何も、何一つ、残っていないのだろうか。
ぐるぐるくるくる、思考は回る。でも他は何も動かない。視線も体も心も、皆みんな、止まったまま。鼓動とか呼吸とか、そういうのは辛うじて動いているけど。それが止まるのも、時間の問題なのかな、なんて思う。だって、必要ないし。あっても苦しくて辛いだけだし。
俺の周りにあるのはいらないものだらけで、結構整理したと思っていたのに、まだ出来ていなかったみたいだ。取り敢えず、何から捨てようか。目に映るものはあれもこれもそれも、いらないように見える。果たして自分の感覚が正しいものなのか、俺には全然分からない。分かるのはそう、いらないものがあり過ぎるってことだ。必要ないものがそこかしこに転がってる。だから俺はこうして──。
ぎ、と蝶番が軋む音がして、いつもの靴音が中に入ってくる。俺は意識だけでそっちを見て少し、ほんの少しだけ、溜め息を吐いた。また、か。ここのところよく来るな、なんて思いながら。着せられた服を、着せた奴の手で剥ぎ取られていく。露になる体は白くて細くて、自分のものじゃないみたいだった。そう、たとえば、人形とか、そういうの。
冷たい手が触れる。俺の体も冷えているし、触れられてるって感覚もない。ただ、これまでの経験で知っているだけだ。こいつの手は氷みたいに冷たい。それに、凄く、おっかなびっくり俺に触る。
意味は知らない。理由も知らない。知識として知っている、だけだ。
俺の体の至る所に指を舌を這わせながら、声が唇から漏らされる。それは…何だろう、悲しみみたいなものに彩られていた。
「おめでとうギルベルト君。これで君は晴れて帰れる訳だ」
その音の羅列が何を示すのか、俺には分からない。だからいつものように受け入れて穿たれて揺さぶられて、ほんの微かに声を漏らして。何か視線が痛いな、って思ったけど、痛いって何だったっけ。どういう感覚なんだっけ。
小さい舌打ち、ぐしゃぐしゃ自分の髪を掻き混ぜて、そいつは俺を見下ろす。綺麗な綺麗な、アメジストの瞳で。色濃い感情が浮かんでいたような気がするけれど、何なのかは判断出来なかった。いつもより深い色だなって感じて、それ、だけ。
「嬉しい?
悲しい筈、ないよね。君は僕も僕の国も、大嫌いだものね」
俺の返答なんて端から期待していない言葉。いつも失望するのに、どうしてわざわざ口に出すんだろう。俺が反応する筈ないの、分かってる癖に。そうしたのも自分だって、分かってる癖に。何でそんな顔をするんだろう。そんな、顔。
俺にはもう上手く表現出来ないけど。何も感じない筈の心がきゅうっと引き絞られるような錯覚がした。何だろう、この気持ち。何て言うんだったっけ。こんな時、何て言えばいいんだったっけ。
「…さよなら、ギルベルト君。Я
люблю
тебя」
耳元で囁かれた言葉は、やっぱり俺には全く理解出来なかった。
帰ってきてから、数日か数週間か数ヶ月が経った。
俺には未だに時間感覚がない。感覚も実に鈍くて、自分の感情を上手く表現することが出来ない。自分の殻に引き籠もっていたせいだろうと、昔馴染たちは口々に言った。そして帰ってこられてよかったとも、言った。
心に何か湧き上がったけれど、それは案の定上手く表すことが出来なくて。肩を落としたら、無理をしなくていいと微笑まれた。少しずつ取り戻していけばいいと。時間は沢山あるのだから、と。俺は頷いて、でも余り共感は、していなかった。
本当に取り戻せるのか、疑わしく思っていたから。俺は確かにあるべき場所に、ルートヴィッヒの隣に帰ってきた。けど、完全な──離れた時から何も変わらない状態で帰った訳では、ないのだ。置いてきたものが沢山、両の手に乗り切らない程に、ある。その中に感情とかそういうものも含まれていたんじゃないかと、俺は気が気ではないのだ。何せこっちに帰るまで、自己なんてものとはおさらばしていたものだから。何は置いてきてもよくて、何は置いてきてはいけないとか、そんなの分からなかった。
というか帰れることも全然理解出来ていなくて。帰って感覚が少しずつ戻ってきて、漸く帰ったんだってことが分かったくらいだった。あの時ルートヴィッヒは大袈裟なくらいに喜んで、ガチムキな体で俺を抱き締めた。思えば、あの時感じたのが「幸せ」とか、そういうものなのかもしれない。早く思い出せればいいな、忘れてしまった色々なことを。それでちゃんと皆と語り合って、笑って、騒いで、出来たらいい。
そうしたら、この意味も、分かるんだろうか。
「Я
люблю
тебя」
口に出して呟く、何度も何度も頭の中で再生される言葉。側にいたルートヴィッヒが顔を上げて眉を寄せたけど、俺にはそれが何を意味するのか、不甲斐ないながらこれっぽっちも分からなかった。
逃げて逃げて逃げて
(それでも氷は付き纏う)
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