本能は紅のかなり後/これの完成版
「どうした、ルッツ?」
薄く目を閉じていたところに影が掛かって、俺は目を開けた。ソファに腰掛けた俺の目の前に、ルートヴィッヒが立っている。顔はいつもの仏頂面、だがそれはいつもよりほんの少しだけ、血色が悪い。
くぅっと目を細めると、ルートヴィッヒは膝を折った。俺に伸し掛かるようにして覆い被さってくる。
「血を、くれないか…兄さん」
耳元で低い掠れ声が囁く。それは体の奥底からの渇望に濡れている。獣のようにぎらついた目が俺を射抜かんばかりに見つめてくる。俺はぺしりと、ルートヴィッヒの額を叩いた。
「お前この前飲めって言った時拒否したじゃねぇか」
「それは」
「言い訳は聞きたくない。俺は気分じゃねぇんだよ…」
──だから。
付け足して、にやりと口角を上げる。強情で自分勝手な弟にこれくらいしたって罰は当たらないだろう。
「そんなに吸いたいならその気にさせろよ、ルッツ」
そう、今度は俺がルートヴィッヒの耳元に囁き掛けた。
所変わって、俺はベッドに腰掛けていた。仄寒い空気に晒される素肌、真っ白なそれに絡むもの。ルートヴィッヒの、舌。
床に跪いて、ルートヴィッヒは俺の足に舌を這わせていた。正確に血管の上を通り、それは徐々に上に上がっていく。気に入りの噛み場所に辿り着く度に繰り返される甘噛みと丹念な愛撫は、ルートヴィッヒがどれだけ血を欲しているかを伝えてくる。だが態度はどこまでも柔順だ。今にも飛び掛かってきそうな爛々とした目で、俺を恨めしげに見つめてはいるが。
普段からは想像出来ないその姿に、俺は少しばかりの優越感を覚える。奉仕するのが俺ばかりってのはどうも気に入らない。たまにはこいつが跪いてもいいと思うのだ、たとえドSだって。そこで役に立つのが、俺が唯一ルートヴィッヒに対して持っている絶対的優位。即ち、血をやるかどうかは俺の気分次第だということ。体の奥から突き上げてくる純粋な欲望は、終いには理性を崩壊させる。ルートヴィッヒは、俺に恭順を示さざるを得なくなる。それが、快楽。
「ぁ……は……、…」
「…兄さん」
かぷ、内腿に軽く歯を立てられる。薄皮一枚さえ裂かないそれに、条件反射のように俺は息を乱した。ルートヴィッヒの声は熱を帯びている。俺を煽りながら自分も煽られてちゃ駄目だろう、と思う。が口には出さない。俺たちは本能には、血の誘惑には決して勝てない。
「んっ…あ、ぁ…」
「兄さん、」
切羽詰まった声をしながら、それでも緩やかにルートヴィッヒは俺を押し倒す。覆い被さってきた奴の舌が辿る、脇腹、胸元、肩口。
正直なところ、俺はもう大分出来上がってしまっていた。早く欲しい、欲望が疼くのをもうやり過ごせない。だが素直に負けを認めるのは嫌で、だから言い方は自然と根負けした風になる。
「…かった、分かったからっ……好きにしろ」
吐き捨てるように言うと、途端、ルートヴィッヒは首筋に顔を寄せてきた。ぴちゃり、舌が肌の上から血管をなぞる。
「う…ぁ……ん…ぁあ…っ」
唾液を塗り込むかのように何度も何度も行き来する舌。荒い呼吸がざらざらと耳を撫でる。慎重に慎重に、決して傷付けない力で噛まれるのは、もう、堪らなかった。
ぞくんぞくん、込み上げてくる快感に体が微かに震える。自分だって我慢が出来ないくらい出来上がっている癖に、ルートヴィッヒは必ずこの手順を外さない。
「お前しつこ…も、早く来いよ…」
「解しておかなければ辛いのは貴方だぞ」
「その辛い俺がいいって言ってんだ……ぁっ」
俺たちの牙というのは、皮膚を突き破って血管に到達するのに特化している。噛まれる側のことなんて、本当にこれっぽっちも考えていない。だから物凄く、痛いのだ。
初めてルートヴィッヒに噛まれた時、俺は危うく失神仕掛けた。というか一瞬していたと思う。
それを少しでも緩和させる為に、ルートヴィッヒは噛む場所を丹念に愛撫するようになった。そりゃあがちがちに固まってるより、解れていた方が牙の通りがいいに決まっている。だがそうしていたって、こいつの場合は本当にヤバくなってから漸く飲むものだから、加減が利かない。思いっ切り噛み付いてくる。噛み殺されるんじゃないかと、半ば本気で心配するくらいに。俺は毎回毎回、多大な痛みを絶えている。
それでも止められないのは、快楽を知ってしまったからだ。抜け出せない。この行為がどうして禁忌なのか、今更ながら実感する。
「…そういえば貴方は痛い方が気持ちいいんだったな。なぁ、兄さん」
俺の言葉に目を細めたルートヴィッヒが、つぅっと唾液を引きながら舌を離した。大きく開かれる口、そこから覗く鋭い牙に俺は目を伏せる。
「ひぁっ!…あっ、ぁ、あぁぁ…!」
肌を突き破る衝撃は、何度味わっても、慣れない。
何の躊躇いもなく突き立てられた牙が、深く深く肉に埋まっていく。そしてそれは血管を探り出し、血を吸い上げる。
刺すような痛みに俺は声を上げる。
「いた……あ…ぁー」
「熱いな…それに、甘い」
「やっ、おく、おくいや…やだぁっ」
熱っぽく言ったルートヴィッヒが、更に奥へと牙を進ませる。跳ね上がる痛みに俺は体を強張らせた。
出ていく、抜き取られていく、俺の血。ルートヴィッヒの体にも同じ血が流れてる。俺の血とルートヴィッヒの血が、体内で混ざる。一緒になる、ドロドロに。
あぁ、何て。
「深…過ぎ……っ…ルッツぅ」
下手に首を振れなくて視線だけで訴える。目尻には涙さえ浮いていたと思う。
ルートヴィッヒは一旦口を離して、ぺろりと唇を舐める。正しくは唇についた俺の血を。実に美味そうに、見せつけるように舐め取る。
「貴方も、するか?」
ボタンが外されて脱ぎ捨てられるシャツ、晒される首筋にぐびりと喉が鳴る。目は見える筈がない血管を正確に捉えていた。あそこに、流れている。俺の血、ルートヴィッヒの血。
禁忌の行為──それはとてもとても、甘美なのだ。こくりと頷くと、再びルートヴィッヒが体を寄せてくる。俺は解してなんかいない肌に、牙を立てる。
「ん、……ふ…ぁ、は…」
ぐいぐい無理矢理食い込ませると、口内に広がる甘い血潮。ぶわり、快楽が膨れ上がる。俺がこの激しい痛みを伴う病み付きになってしまった原因。甘い甘い、血。他にはない、ルートヴィッヒからだけ得られる、特別な。それはこの上ない快感を呼び覚まして、俺を酔わせる。あぁ、堪らない。
「っ…そんなにキツくするな…」
「あ…すご……ふぁ…」
言いながら、ルートヴィッヒが同じ場所に牙を埋めてくる。血を吸いながら吸われる、奇妙な感覚に体が震える。呼吸を整える暇なんてなくて、逆上せ上がった頭のまま、貪り合う。
流れ出す血は、俺のものでルートヴィッヒのものだ。二人で一人。どちらが欠けても駄目な、俺たち。離れたら生きてなんていけない。絶対、無理だ。
「兄さん…」
「あ、あ…ルッツ…ルッツ、」
先を望んで止まない体を擦り寄せると、ルートヴィッヒは薄く笑って俺を抱き締めた。
title by nichola