※唐突にパロ。奴隷×ご主人様です。これに関連してるっぽい話。






 呼んでもいないのに、尚且つ先触れもなしに奴らが尋ねて来るのは、特段珍しいことでもなかった。だから俺はフランシスとアントーニョが来たと告げられた時、軽く溜め息を吐いたくらいだった。思ったことはといえば、今日は客に会うような格好をしてねぇんだよとか、相変わらず何の連絡もなしかとか、それくらいだ。
 客間に通しとけと室外の使用人に言葉を投げてから、俺は視線だけを上に向かわせた。鏡を通して背後を見つめる。鏡の前に置いた椅子に座った俺の髪を懇切丁寧に梳かしている奴を、見つめる。
 背の高い男だ、ついでに引き締まった筋肉を備えてもいる。鼻筋が通っていて髪の金も瞳の碧も申し分ない色艶だ。サファイアともアクアマリンとも違う綺麗な目を見るのを俺は気に入っていて、よく見えるようにこの頃は前髪を上げさせている。そうすると男臭さが増すようで、眉根を寄せられたりするとぞくぞくっと腰に来た。
 自分の趣味が特殊だってことは十二分に分かってる。そんな俺に気に入られちまったんだから、災難としか言い様がないだろうな。こいつ──ルートヴィッヒにとっては。
 苛めに苛め抜いて言わせてやった名前は舌に馴染みがいい。親しみを込めてルッツと呼んでやっているが、そこのところルートヴィッヒはどう思っているのだろう。訊けば答えるんだろうが、それが本心かは微妙なところだ。完全に俺に平伏していないとはいえ、積極的に反抗してくる訳じゃあない。世辞の一つや二つは簡単に言えるだろう。
 俺はそのくらいには、ルートヴィッヒの自尊心やら羞恥心を砕いてやった自信がある。十分だと思えるまでねちねち苛めてやるのは実に楽しかった。
 のだが、その話はまた今度だ。今は支度をしないとな。長々待たせると嫌味が鬱陶しいったらない。
 俺は鏡の中のルートヴィッヒをじっと見つめたまま、ルッツ、と声を上げる。ルートヴィッヒは僅かに手を止めて、鏡越しに俺を見た。無言ながら何かと問う視線に俺はくふりと口元に笑いを上らせる。

「着替える。奴らも一応客だからな」

 いいやつ出せよ、言えばルートヴィッヒは軽く頷いてクローゼットに向かう。
 喋り過ぎないところも俺がルートヴィッヒを気に入っている理由の一つだ。一見は無愛想に見えるが、言葉だけ応える奴らより余程きちんと言い付けに従う。それはどんな甘言よりもしっかりと俺の信頼を勝ち取った。計算してやっているとしたら大した玉だ。計算してやっていなくとも、それはそれで凄い気がしなくもない。
 あの時俺がルートヴィッヒを見付けたのはやっぱり奇跡だったのだろう。そして同時に、運命だった。
 普段は使わないような言葉で表現してしまいたくなる程に、俺はルートヴィッヒとの出会いに特別なものを感じていた。それが何なのかと言われれば、正確に言い表す言葉を見付けられないのだが。くるくる脳内遊戯をしながら、俺はちらりとクローゼットの方を見遣る。遅いな、いつもならそろそろ一式持って現れる頃なのに。
 そういえばルートヴィッヒの奴は服の趣味もいい。全く興味がないから調べていないが、結構いい家柄の生まれなのかもしれない。目にした覚えがないから俺と縁のある家じゃあなさそうだけれど。あんな品行方正っぽいの、俺と縁のある家の奴だったらびっくりだもんな。
 俺が知り合う奴らは大抵、どこかしらに何かしらの異常を抱えてる。取り返しのつかない奴もいれば、まだ間に合う奴もいる。それは今客間で俺の登場を待っている、フランシスとアントーニョにも言えることだ。あいつらだって大概、おかしい。
 フランシスはとにかく美しいものなら何でも愛の対象で、老若男女、見境というものがまるでない。アントーニョの方は小さい子供が涎を垂らす程に──言っとくがこれは決して比喩じゃない、俺は実際見た時に引いた──大好きである。で、俺はと言えば常時女装して男を何人も囲っている。
 世間の目なんてものにはもうとっくに慣れてしまって、最近じゃ隠すとかそういう言葉が脳裏を過ぎることさえない。流石に公式の晩餐会だ舞踏会だって場所じゃ自重せざるを得ないのだが。俺だって命は惜しいね、不敬罪で死刑なんて御免だ。
 男の正装とか気持ち悪いし動き辛いし最悪で、そう度々着たいとは思わないし思えない。よく着てられるよな、あんなの。と感じるのは俺くらいだと分かってるが1人くらいは賛同者が欲しい。ドレス最高だぜ。
 って本当に遅いな、何やってんだ。焦れてきて椅子から立ち上がろうとした時、漸くルートヴィッヒが戻ってきた。両手に大きな箱を抱えている。それも2つも。

「遅い」
「申し訳ありません。先程仕立てていたドレスが届いたのでこちらになさるかと思いまして」
「真紅のベルベット?」
「それに最高級のサテンも使われたものですね」

 言いながらルートヴィッヒが箱の封を解いていく。顔を覗かせるのは何度となく店に足を運んで手直しを加え俺好みにした流行の型のドレスだ。シンプルながら豪奢な雰囲気で、実にいい出来に仕上がっている。やっぱり腕いいな、あの仕立て屋。駄目出ししまくったのに嫌な顔一つしなかったし。暫くはあそこに全部頼むか、んで今度は何着か纏めて頼もう。
 頭の中で算段を立てる俺を余所に、ルートヴィッヒは俺を立たせて手早くドレスを着せていく。ウエストを締めたり何たりするのに結構力を掛けるのだが、俺に無駄な負担が掛かることはない。このムキムキのどこに力の制御装置がついているのか、非常に興味深いところだ。
 本気を出せば俺なんて簡単に括り殺せるだろう逞しさに、目の前の光景がくらりと揺れる。いつでも止どめを刺されることが出来る、そのことに俺は歓喜し安堵する。その感情がどこから湧いてくるものなのかは、いまいち分からない。
 最後のリボンを結んだルートヴィッヒの手が離れていく。俺は意識を現実に引っ張り戻して、鏡の中の自分を見つめた。真紅の色は俺の瞳より少しばかり濃いくらい、全体的に色素が薄い俺にはこれくらいキツい色の方が似合う。ヘッドドレスがちょっと寂しい気がしたから薔薇のコサージュを留めて、うん、なかなかいい感じだ。
 くるりとその場で1ターン、俺は側に控えているルートヴィッヒを見る。シンプルなシャツとスラックス姿もそりゃあ似合っちゃいるが、俺の後ろをついて歩かせるにはちょっと質素過ぎる。俺はルートヴィッヒの横を擦り抜け、まだ開けられていないもう1つの箱に手を伸ばす。開くと推測通り、それはドレスと一緒に頼んだルートヴィッヒの礼服一式だった。
 ジャケットを手にして振り向くと、ルートヴィッヒは実に微妙な表情を浮かべていた。最近分かるようになったほんの少しの変化、だが気付いてしまえば大きな変化だ。なーに考えてんだかな。まぁ気遣ってやる義務など俺にはないから、放っておくことにする。

「お前も着替えろよ、ルッツ。一緒に来い」

 言えばやはりルートヴィッヒは微妙な表情をしたが、抵抗の意思を示すことはなかった。



「遅いでーヒルベルト」
「ドレスアップに手間取ったかな、お嬢さん?」

 客間に一歩足を踏み入れるや否や、俺には2つの声が投げ掛けられた。1つはアントーニョからのもの、もう1つはフランシスからのものだ。
 アントーニョはソファに深く腰掛け、背凭れにべったりと凭れ掛かっている。だらしない様子だが、着込んでいるのはどれも上質な素材のものばかりだった。きちんとアイロンも当てられているから、服だけではそうだらけた風には見えない。それにしても緋の好きな奴だな、目に痛いぜ。この前着てたド派手なオレンジよりはマシだけど。
 対するフランシスは浅く腰掛けて、すらりと長い脚を組んでいた。こっちは体のラインに添うようなシルエットの服が好きで、今日も少しでも太ったら着られなくなりそうなものをさらりと着こなしている。落ち着いた深い青は俺も結構好きな色だ。これだけ完璧に上から下まで着飾られていると武装にも見えてくる。女でもなかなかここまで気を回さねぇぞ、普通。
 2人と俺の関係を一言で表すなら、そう、悪友だろうか。最初は取り引き相手だったり商売敵だったりした、ような気がしないでもない。いつもならそう簡単に馴れ合ったりしないのに、こいつらが相手だといつも通りにはいかなかった。
 足を引っ張られたり引っ張ったり、協力したり貶めてみたり、あれこれするうちに何故だか、俺たちは気安い仲になっていた。ちょくちょく会って呑みながら近況報告をして、儲け話もして。固い信頼で結ばれているような仲では、決してないと思う。だが根幹ではきっと、俺たちはお互いを誰よりも信頼し合っている。だから仕事で何があろうと、こうしてプライベートじゃいきなり家に押し掛けるなんてことが出来るのだ。
 俺はドレスには似つかわしくない大股でずかずか歩き、気に入りのカウチに腰を下ろす。半歩後ろをついてきていたルートヴィッヒはすかさず、座り皺が成る丈つかないようにドレスを引いて整えた。

「ルッツ、お茶淹れてこい。3人分な」
「…畏まりました」

 顧みもせずに言うと一礼する気配があって、ルートヴィッヒは足音もなく退室する。扉がきちんと閉まる音を確認してから、俺はこほんと咳払いを一つ。お互いに顔を見合わせて口パクで何やら会話していたフランシスとアントーニョはそれで漸く俺を見た。遅い、且つ反応が鈍い。俺だって日がな一日暇してる訳じゃあないんだ、仕事の話でもただの雑談でも、テキパキ熟してくれなければ困る。
 とはいえ、今日は特に予定なしだったんだけどな。でもいつ何時急な仕事が入るか分かんねぇし。いつルートヴィッヒを構い倒したくてしょうがなくなるかも分かんねぇし。用心があるならとっとと話せよ、遠慮するような仲でもなし。
 視線で促すとフランシスとアントーニョはまたお互いに顔を見合わせ、それから譲り合うような動作をし出す。お前先に言えよ、いやお前こそ、なんて言ったところか。いつになく鬱陶しいやり取りにイラッときた俺は、遂に自分から声を上げる。

「いい加減にしろよお前。言いたいことがあるなら言えってーの」
「…それならずばりお伺いするけど、」
「あれが噂の『バイルシュミット嬢が最近ご執心の男前な奴隷』なん?」

 本当にずばりお伺いされて、さしもの俺も盛大に噎せた。
 アントーニョが口にしたのは俺の耳にだってとっくに入っている、社交界で囁かれている噂だ。俺が最近囲い入れた奴隷をいたく気に入っていて、方々に連れ回しているとか何とか。事実だから訂正しようとも思わなかったが、俺の趣味を実によく分かっているこの2人に突っ込まれるとは思わなかった。
 あいつが噂の奴かなんて、聞かなくても見れば分かるだろうに。見るからに男前だし、俺が飼ってる奴を引き合わせたのは初めての筈だ。
 妙な期待に目を輝かせて俺を見てくる2人に溜め息が出る。まさかそんな下らないことの為に押し掛けてきたんじゃないだろうな。とは、そうだと答えられるのが怖いから訊かないことにする。
 ルートヴィッヒが噂の奴なのかと問われれば、俺の答えはJa以外は有り得ない。あぁそうだと頷いてやると、フランシスは諦め顔をし、アントーニョは驚愕に顔を引き攣らせた。おい何だその、やっぱりね…みたいな表情とそんな馬鹿な!みたいな表情は。俺の答え──若しくはあの時ルートヴィッヒを選んだことに、何の不満があるってんだ。
 むっと眉間に皺を寄せるとフランシスがへらりと作り笑いをする。顔面にハイヒールを飛ばしてやりたいのを俺は必死で耐えた。

「何だよお前らその顔は。何か文句あるのか?」
「いやいやそんなのないって」

 なぁ?とフランシスはアントーニョに話を振るが、残念ながらアントーニョはまだ驚きに固まっている。そんな奴から答えが返る筈もなく、気拙い沈黙が室内に降りた。
 隣をつんつんつついて反応が全くないのを確かめてから、フランシスは俺を見る。ルートヴィッヒのものとは受ける印象の違う碧眼に、心中を見透かすような鋭い視線を乗せて。
 こいつのこの眼差しはあんまり、好きじゃない。というか得意じゃない。本性を垣間見せる、へらへらふらふらした仮面を取り払ったこいつは、決して俺の好みの範疇に入らない。
 背筋の辺りがぞわぞわして、自然と険のある顔になるのが分かる。分かるけれど、にこやかな表情を作れる気が微塵もしなかった。
 ごくりと喉が鳴る。

「彼のどこがそんなに気に入った訳?」
「ふぁ?」

 口にされた言葉が意外過ぎて、変な声が出てしまう。
 きょとりとする俺にフランシスは本性を引っ込めて、またするりとお上品な仮面を被る。顔にはしてやったりという表情が浮かんでいた。
 ……もしかして、いやしなくても、俺様をからかいやがったな。
 苦手なの知っててわざわざそっちの顔を覗かせて、俺を緊張させて。その上で「どこがそんなに気に入った」なんて、なんて、ふざけているにも程がある。クソ、最悪だ。
 絶対何かにつけて持ち出してきて笑うに違いない。こいつはそういう奴だ。そういういやーな奴だ。

「フランシス、てめぇ」
「怒るより先に教えてよ。彼が戻ってきちゃう前に」
「………別に、」

 別に、ルートヴィッヒを気に入った理由なんかどれも、人を納得させられるようなものじゃない。最初の理由はまだ目が死んでいなかったからだった。それから全然屈しようとしない頑ななこと、ムキムキで暖かいこと、目が凄く綺麗なこと、ヤってる最中の声がヤらしいこと…その他挙げていけば切りがない好みなとこを見付けて、気付いたら気に入っていた訳で。
 説明して人を納得させられるような理由は、どこを探しても見当たりやしない。そもそも俺は奴隷を買う時に、理由とか小難しいことは一切考えないことにしている。何も感じるものがなければその時は収穫なしで、強烈に感じた時は即行で買い付ける。その場のノリ任せと言っても過言ではない程だ。
 だから、そう、どこがそんなにと言われても、困る。強いて言うならルートヴィッヒの全てを気に入った、か。…いや、でも気に入らないところが全くないって訳でもないんだよなぁ。
 むんむん考えていると、何故だか脳裏にルートヴィッヒの姿が浮かぶ。それもがんがん腰振って前髪乱してる時の。寄せられた眉根と細められた目にきゅんとする。ギルベルト、なんて掠れた低い声の幻聴まで聞こえて、俺はほうっと嘆息した。
 ルートヴィッヒに名前を呼ばれるのは好きだ。キスされるのも抱き締められるのも好きだし、呆れた顔されるのだって、嫌いじゃない。待てって言った時の今にも強引に突っ込んできそうな肉食獣めいた顔とか、本当、堪んね。ストイックそうな顔してあれだもんな、1回好き放題やらせてみたい気もする。そうしたらどうなっちまうんだろう、俺。

「ギル、おいギル! 色々漏れ出してアントーニョみたいになってるからいい加減戻ってこい!」
「うぉ?!」

 無粋なフランシスの声にルートヴィッヒの姿が掻き消される。
 アントーニョみたいになっているとは失礼な、と思ったが、今の自分の状態を確認してみると確かにそんな感じだった。俺の名誉の為に最初に言っておくが、涎は垂らしていない、断じて。精々自分の腕で体を抱き締めるみたいにきゅーっとして、頬染めてたくらいだ。俺なんか可愛いもんだろ、本当に凄いんだぞドストライクな子供を目の前にしたアントーニョの奴は。
 我に返ったもののまだちょっと火照っている気がする頬にぱたぱた風を送る。そんなことをしたって赤くなってるのは治らないが、まぁ気休めだ。
 フランシスはそんな俺を見てやれやれと肩を竦めてみせる。

「もういいよ何も言わなくて。その様子で十分よく分かったから」
「俺の様子を見るまでもなく分かれよ。ルッツのどこを気に入ったかなんて一目瞭然だろうが」
「……顔?」
「隅から隅まで全部だばぁか」
「もう嫌や何なんこのヒルベルト?! 気持ち悪くて敵わんわぁ!」

 言い切った俺に反応したのは、漸く衝撃から立ち直ったアントーニョの方だった。何をそんなに驚くことがあったのか、俺は首を捻るよりない。気付かないうちに男の趣味変わったのかな、俺。いやいや、そんなことはないと思う…多分。
 ぎゃいぎゃいといつもの騒々しい会話──というより最早言い争いをしていると、軽くノックの後に扉が開かれた。ずっと話題の中心でありながら不在だったルートヴィッヒが銀盆を抱えて帰ってきたのだ。
 テーブルの上にソーサーとカップが並べられ、綺麗な琥珀色の液体が注がれる。ポットを側のテーブルに置いてから、ルートヴィッヒは俺のカップの脇に小皿を添えた。そこはちょこんと小粒のチョコレートが乗せられている。
 こういう時、俺が説明を求めて何かする必要はない。ルートヴィッヒはそこのところをちゃあんと、心得ているから。

「シューレンブルク卿から貴方にと」
「小忠実なことだな。……ん…ぁ、美味し」

 口に放り込むとチョコレートは舌の上でほろ苦い味を蕩けさせた。べたべたに甘いのは苦手だから、俺にはこれくらいの方が丁度いい。
 差別やー贔屓やーとアントーニョが不平を言っているのを尻目に、俺はひょいと手を伸ばす。すぐ届く位置に立っている、ルートヴィッヒに向かって。

「それはよう御座いまし…?! …ん……、は…」
「は、ぁ……な、美味しいだろ?」

 引き寄せて無理矢理屈ませて、チョコレートの味を残している舌を口内に突っ込む。ルートヴィッヒは驚いた顔こそしたが、俺を振り払うような真似はしなかった。というより寧ろ舌を差し入れてより深く絡めさえした。
 フランシスが盛大に視線を逸らしてアントーニョがまた固まっているのが見えるが知ったことじゃない。ここは俺の屋敷で、全ての決定権は俺にあるのだ。つまり端的に言えば何をしようと勝手。このまま押し倒して乗ってもいいかな、着替えた時の欲情が再燃してきたんだけど。
 そこまでしたら流石に引かれるか? 別にこいつらに引かれたところで俺に不利益も害もないんだよな、正直。ヤバい、本気でシたくなってきた。脳内会議じゃ満場一致で押し倒す法案が可決されたんだが俺はどうすればいいんだ。
 困る俺に、次なる行動の指示は迅速に出された。但し俺の内部からではなく、思い切り外部も外部、部屋の外から。

「ギルベルト様、お楽しみ中のところ申し訳ありません。至急ご意見を頂きたい取り引きがあるのですが…」
「…分かった、すぐ行く」

 ちょっと席外すぜ、言い置いて俺は席を立つ。
 まだ紅茶に口付けてなかったのにな、戻ったら冷めてそうだ。折角ルートヴィッヒが淹れたやつなのに。
 俺がちぇーと唇を尖らせたのに気付いたのは誰一人としていなかった。


◆ ◇ ◆


 気紛れで自分勝手な我が主人が呼ばれて出ていってしまってから、室内には実に居心地の悪い空気が漂っていた。それは俺のせいではなく、明らかに残り2人のせいである。彼らがギルベルトとどのような関係であるのか、俺は一切知らないし聞かされてもいない。それでも先程までのやり取りを見ていれば、気の置けない仲なのだということは認識出来た。
 ざわりと心の深い部分が波打つのは何故なのだろう。幻覚じみた息苦しさに俺は深く息を吸い込み、細く長く吐き出す。そうすれば幾らか平静を取り戻すことは出来たが、居心地の悪い空気ばかりは何ともならなかった。俺が原因でないのだから俺にどうにか出来る筈もないのだが。
 そろりと視線を向けると、金髪の男が俺を手招いた。近くに来い、ということらしい。ギルベルト以外の命に従うことなどしたくもないし普通ならしないが、俺はとにかくこの空気をどうにかしたかった。立っていたソファの脇から机を挟んだ対岸まで移動すると、男が間近から見つめてくる。
 動いた拍子にふわりと何かの匂いが鼻を掠め──俺の記憶は一気に何週間か前に引き戻された。帰ってこない筈だったギルベルトが帰ってきた日。何か嫌なことがあったのだと知れる行動を取った彼の髪には、誰かの移り香がついていた。甘い香水の、匂い。そうだ、この匂いはあの日嗅いだものと全く、同じもの。ならばあの日、この男がギルベルトの側にいたというのか。
 俺は知らず厳しい眼差しで男を見下ろす。そのことに気付いているのかいないのか、男は口元にうっすらと笑みを浮かべている。それがどうしようもなく心を波立たせた。
 何だと、いうんだ。こいつは何を考えている。こいつはあの日一体何をした。何をされたらあんな風に、あの人は、ギルベルトは、打ち拉がれて。
 ギリ、と耳障りな音がする。何かと思えばそれは俺が歯をキツく噛み締めた音だった。
 男が笑みを濃くして、ゆっくりと口を開く。

「そんなに怖い顔するなよ。一体何を恐れてる?」

 何も恐れていない、とは、とてもではないが言えなかった。答えの代わりに男を力の限り睨み付ける。
 ギルベルトに何をしたと問い詰めることは俺には出来ない。何があったのだとギルベルトに問うことも俺には出来ない。それは決して望まれない行動であるから。それは決して、受け入れられない行動であるから。
 何を恐れているのかなど、自分自身でもよく分からない。けれど胸の辺りがもやもやして、どうしようもなく苛立ちが募った。男から立ち上ぼる甘い匂いが感覚を惑わせて、全てを曖昧にしていくようだ。
 獣のように低く唸って威嚇しそうになるのをどうにか耐える。一応はギルベルトの客人であるから、無礼があってはいけないだろう。礼を尽くしてやる必要は、特段ないと思うのだが。
 それにしても、と俺は2人の様子を観察する。先程から有り得へーんなどと訛りのある口調で呟いては悶えている男は、ギルベルトの好みか好みでないかでいけば後者に入るのだと思う。俺を側まで呼び付けたこの男にしたって、そうだ。ギルベルトの好みからは外れている。どこがどうとは言えないのだが、感覚的にどこか違うのだ。
 それでも親しげな様子だったのは、どこかしらに気の合うところがあったからなのだろう。俺の主というのは意外ときちきち境界線を引いていて、誰をどこまで踏み込ませるかきちりと決めている。上辺だけ親しげに話すのを見たことがあるが、今日のギルベルトの態度はそれとは違った。気安そうな表情、砕けた喋り方は深くまで踏み込むことを許した人間にしか見せないものだ。彼が自分以外にそんな風に接するのを見たのは初めてで、胸がざわりざわりとする。ギルベルトにそのような友人がいないとはよもや思っていなかったが、それにしても──気分が悪い。
 身体的なものではなくて心理的なものだと思うが、何だというのだろう、この気分は。こんな想いを抱くような理由は、ないのに。そんなような相手でも、ないというのに。
 はぁ、溜め息を吐きそうになって慌てて飲み込む。男はまたちらりと俺を見上げて、比較的に軽い調子で口を開いた。

「そういえばさ、それとなく謝っといてくれないかな、ギルベルトに…この前のこと」

 その言葉にびしりと俺は固まる。
 この前のこと、と、確かにこの男はそう言ったのか? この前──その不明確な指示語で俺が思い当たるのはあの日しかない。今日は帰らないと言い置いて出ていったギルベルトは、酷く機嫌を損ねて帰ってきた。あの時ギルベルトの髪から嗅いだ匂いを纏い付かせた男が、「この前のこと」を「謝っといてくれ」と言う。
 それはどういうことだ。あの時、謝らなければならないようなことが起きたのか。謝らなければならないようなことを、した、のか、お前は。
 考えれば考える程に心拍数が早くなる。知らず握り締めていた拳はじっとりと汗ばんでいた。らしくないと分かりながら、焦燥感じみた感情を抑えることが出来ない。何だというのだ、一体。
 俺はあの人に買われた、そして囲われている奴隷なのであって、そんな俺には最低限以上の自意識は必要ない筈だ。主人が望んだことをきちんと出来るだけ残っていればいい。私的な感情は不要で邪魔なだけで、何の役にも立たない。そう思って──徒に絶望も失望もしたくなくて──捨てた筈だ、全て。それなのに何故俺はこんな風に、自分の感情に頭を悩ませている。それなのに何故俺はこんなに、こんなにも。
 緩く頭を振るとギルベルトに整えられた前髪が乱れて落ちてくる。髪に差し入れられた白く細い指の感触を思い出すと、ぞくりと背筋に震えが走った。今にも折れてしまいそうな、確かに男のものでありながら華奢な指。あれがあんな風にしてこの男に触れたのかもと思うと、目の粗い棒鑢で神経を逆撫でされたような嫌な気分になる。
 こんな気分になるのはほとんど、初めての経験だった。じりじりと背を焦がす感覚に耐えていると、ふともう1人の男の方が口を開いた。

「あんま苛めたるなやーフランシス」
「苛めてるつもりはないよアントーニョ。それに直接謝ったって逆効果だろ、原因があれの場合」
「お前上手いこと踏んづけたもんなぁ、地雷」
「俺は踏みたくて踏んだんじゃないんだけどね」
「けど踏んだことに変わりはないやんなぁ」
「待て、地雷とは何のことだ」

 ぽんぽんと続いていく会話に、俺はつい口を挟んでいた。地雷、その言葉がどうにも引っ掛かって。
 2人──会話からの情報によればフランシスとアントーニョだ──は、ぴたりと口を噤んで俺を見た。それから顔を見合わせて口パクで何やら言葉を交わす。口の形では何を言っているのかいまいち分からないが、顔から推測することは出来た。アントーニョの方が実に表情豊かだったので。
 何でこいつも知らないんだ、そんなことを俺が知るか。そんなようなやり取りを続けること30秒程、はぁあーと盛大な溜め息を吐いたアントーニョが俺に視線を投げてきた。

「あんなぁ、ヒルベルトにはトラウマみたいなもんがあんねん」
「トラウマ?」
「せや。んでたまーに何かがきっかけになって思い出して、エラい機嫌損ねるんよ」

 俺らも詳しいことは知らんのやけどな。これ以上聞かれても答えようがないぞというように付け加えられる一言。俺はそれに黙って頷いた。
 それだけ聞けただけでも十分だ。…何が十分だというのだろうか、俺は。知ったところでどうにか出来る訳ではないのに。それは決して、望まれないことであるから。聞かされていないということは、俺がその領域に立ち入ることをギルベルトは許していないということだ。それ以外の解釈などない。
 だが、トラウマ、か。そんなに深い傷を心に抱えているのだろうか、あの飄々とした主は。とてもそうは、見えない。勝気で傲慢で、息を呑む程に美しい人。あの人がそんな影を持っているなんて、誰が考えるだろう。それともあの性格も振る舞いも全て、傷を隠しておく為の演技なのだろうか。お得意の欺瞞。もしそうなのだとすれば、俺は。
 と、途端に響いた扉を開ける音に俺は我に返った。そうして初めて自分の意識が思考の奥深くに沈み込んでいたことを知る。

「ったくあれくらいどうにかなんだろ……ってあれ? 何やってんだお前ら」

 扉を開けたギルベルトは、俺と客人が一ヶ所に寄り集まっていることに小首を傾げてそう言った。小鳥のような仕草が妖艶さに似つかわしくないというのに、可愛らしいと思ってしまう。俺も随分とこの人に毒されたらしい。
 内緒話でもしてたのか、なんて強ち間違っていないことを呟きながら、ギルベルトはまた気に入りのカウチに腰を下ろす──前に俺を手招いた。どうして呼ばれるのかすぐに分かってしまう辺り、俺はこの生活にかなり慣れたのだろう。口元を緩めているギルベルトを尻目に、脚を開いてカウチに腰を下ろす。その直後、彼は俺の脚の間に体を納めてきた。丁度横抱きにするような格好だ。昨日丁寧に洗ってついさっき丁寧に梳かした銀糸が肩口に寄せられる。
ハイヒールを履いたまま高級な布地を貼られた座面に脚を乗せようとするものだから、俺はひょいと手を伸ばした。左手の掌で靴底を支え、右手でストラップを外して脱がせてやる。体勢は若干キツいが、まぁ出来なくはない範囲だ。
 もう片足も同じようにして脱がせていく途中、ギルベルトがひくりと脚を震わせた。靴と肌の境目をたまたま指が擦ったのに、どうやら…感じたらしい。年中発情しているような人であるから驚きはしない。
 が、ここで求められはしないだろうなと考えると歓迎出来る事態ではなかった。この部屋に来る前に口付けを拒んだのを根に持ってもいるだろうから、仕掛けてこないとも限らない。自分のことをよく知った友人の前ならばそういうことも平気で出来そうなことだし。
 嫌な予想を裏付けるように、靴を脱がせ終わって元の位置に戻った俺の手に白い繊手が重なる。綺麗に整えた──これもまた俺の手によるものだ──爪が、すりすりと骨や筋を辿っていく。こそばゆさと誘うような動きに拳から僅かに力を抜けば、指は蛇のように俺の指の間に滑り込んできた。きゅう、と握られて反射的に緩く握り返す。向かい合わせていないからしっくりとはこないが、ギルベルトは嬉しそうに口元を綻ばせた。
 胸の奥が思い切り締め付けられる心地がする。駄目だ、ここに来てから普段とて正常だとは思えないが、今日の俺は特段おかしい。

「おいおいギル、お熱いのは分かったから俺たちにも構えよ」
「折角遊びにきたんやからもっとぱーっと騒ごうや」

 2人の世界というか自分の世界に入ってしまっているギルベルトに向かいから声が掛かる。のたりと視線を動かしてフランシスとアントーニョを見た彼は、にぃっと目を細めて宣うた。やだ、と。
 子供のような拒否にその返答をもらった2人だけでなく俺まで噴きそうになった。舌足らずな口調で幼い言葉を使うなど、何を狙っているのだ、この人は。しかもまださわさわすりすり、俺の手を構い倒しであるし。
 肩に懐かれるようにされると甘い匂いが花を掠めて、条件反射的にくらりとなる。フランシスの香水などとは違う、ギルベルト自身が放つ香りだ。それは異様なまでに、俺を魅了する。

「俺は今日ルッツとのんびりする予定だったんだよ。だからお前らの相手は二の次」

 なー、と同意を求めながら唇を重ねてくるギルベルトから逃れる術は、どこにもなかった。






1周年企画リク/奴隷主パロでギルのお惚気