車は実にスムーズに──スムーズ過ぎるくらいに道を進んでいく。何だこれ、何で前に全然車いないんだ?というか対向車ま皆無だし。そんなに早い時間でもないのにおかしい。
 むぅと眉根を寄せたら、狙い澄ましたかのように答えが目に飛び込んできた。開かれたデカい、門扉。もしかしなくても今まで通ってたとこって敷地の中、だったりするん、だよな。玄関に辿り着くまでにどんだけ距離あるんだよ。というか玄関までの車道を二車線にしてるのとか初めて見た。
 ルートヴィッヒってもしかして、希少価値つくくらいの金持ちだったりするんだろうか。でもその割には嫌味っぽいところないしなぁ。華美にしてるでもないから何かこう、らしくない。ストイックな黒スーツを完璧に着熟しているルートヴィッヒを俺は見つめる。と、不意に上がった視線と目が合ってしまった。

「どうかしたか?」

 これがいつもの通勤風景ですが何か、と言わんばかりに向けられる視線。
 あぁ駄目だ、完全に住む世界が違う。持つ者と持たざる者の差を見せつけられた気がして、今更ながら軽くヘコむ。神サマって凄く不公平だよな。博愛精神を取り戻してくれると涙が出る程に嬉しいんだが。
 ルートヴィッヒに何でもないと応えかけて、だけど俺は頭を擡げた好奇心を押さえ込むことが出来なかった。

「あのさ、あの敷地って…どれくらいあるんだ?」
「……8000平方メートルは下らなかったと思うが」

 へー、もう広大過ぎてどれだけ凄いのかとか分からなくなってきたんだけど。普通の家の敷地ってどれくらいなんだっけ。前の飼い主のとこもかなり広かったけど、あれってどれくらいあったんだろう。取り敢えず想像つかないくらい広いってことでいいか。きっと端から端まで見ても同じ感想しか抱けないだろうから。比較出来るものとかあったら俺にも分かりそうなのにな。暇と機会があったらちゃんと調べてみよう。無駄にはならない筈。
 とか何とか風景を見ながら考えていたら、車がゆっくりとスピードを落とした。ホテルみたいな感じの正面玄関にぴたりと横付けされる。時間にして20分くらいだったからそんなに遠くまでは来ていないらしい。ルートヴィッヒがドアに手を掛けるがそれよりも早く、中から出てきた男がドアを開いた。

「お早う御座います、社長」
「あぁお早う」

 人と擦れ違う度に挨拶を交わしながらずんずん進んでいく背中を、見失うまいと俺は必死で追い掛ける。結構若そうなのに社長って、やっぱり親の後を継いだとかそういう部類なんだろうか。つくづく生まれの差って厳しいと思う。
 それにしても、さっきから出会う人間という人間は皆、いかにも普通の会社員といった様子だ。どう見ても堅気っぽくないけど、単に金持ちなだけなのかな、ルートヴィッヒって。
 ──なんて、そんなことある訳がなかった。
 連れられていった先、最上階の6階には不穏な空気が充満していた。別に今すぐ何か起こりそうとか、そういうんじゃない。こびりついた硝煙の臭いが嫌なことを連想させただけだ。この階にいる奴らは他から違って、物騒な雰囲気を纏っているのが多い。何で銃携帯が標準なんだろう、そんなに危ないのかここ。帰りたくなってきたんだけど。
 ルートヴィッヒから離れたら何か起きそうで怖くて、俺は小走り気味についていく。不審げに自分に向けられる視線が不安を煽ったのかもしれない。明らかに場違いだって分かってるからそんな目で見ないで欲しい。さっきとは別の意味で呼吸が浅くなる。
 そんな風に絶えず緊張していたものだから、漸く目的地に着いたらしいルートヴィッヒが足を止めた時は心底ほっとした。嗅覚が鋭いのも考えものだよな。知りたくない情報まで分かるとか困るし、精神的に非常に負担になる。特にこういう、マフィアがのさばっている街では。
 小さくノックをした後にルートヴィッヒが扉を引き開ける。部屋の様相に俺は暫くぽかんとしてしまった。
 一言で言うなら、複数人が自分が一番リラックス出来る場所を持ち寄った、そんな風体。何とも形容し難いコラボレーションをしているインテリアが、おかし過ぎて逆に調和しているような錯覚に陥る。俺、ここに入らなきゃ駄目なのかな。通常の感覚とか常識とかいうものがコンマ1秒で崩壊しそうなんだけど。というか確実にするだろ、これは。混沌としてて目が当てられない、当てたくない。
 それなのにどうしてルートヴィッヒは平然と中に入っていくんだ。もうこれの餌食になった後なのか。だとしたら何というか、とても同情する。

「あ、お早う御座います、ルートヴィッヒさん」

 部屋の入口で躊躇していた俺は、いきなり聞こえた声にびくりと体を震わせた。俺からは死角に入っているのか見えないけれど、中に人がいたらしい。声音からしてルートヴィッヒと親しそうな感じだ。

「お前こそ早いな、菊。フェリシアーノたちはまた重役出勤か?」
「そのようですね。ほら、昨日テレビで恋愛映画やってたじゃないですか。恐らくそれかと」
「あぁ、好きそうな話だったな確かに」

 ぽんぽんと飛び交う言葉。やっぱり親しげなそれに、俺は更に部屋に入り難くなる。入っていったら邪魔だろ、絶対。ついてきたりするんじゃなかった、大人しく待ってればよかった。今更後悔しても遅いことがぐるぐる頭の中を回る。
 だっていうのに。俺がまだ部屋の中にいないことに気付いたルートヴィッヒは、おいでと俺を手招くのだ。逆らえないって分かってやってんのかな。ついでに俺が入りたくないと思ってるのとかも。死地に自ら突っ込んでいかなきゃいけないのか俺は。
 いやいやちょっと待て、今までの苦境を思い出せ。あれに比べれば目の前の混沌空間に足を踏み入れることなんて造作もない筈だ。よしいける、頑張れ俺。
 意志に反してなかなか言うことを聞いてくれない体をどうにか動かして室内に入る。後ろ手に扉を閉めるといよいよ逃げられなくなったようで嫌な汗が出た。なぁ、本当に何なんだこの部屋。
形式からして3つのブースが存在しているのは分かる。分かるけど理解は出来ない。不協和音が物凄いのに誰か気付いてくれよ頼むから。
 ブースの1つ目はルートヴィッヒがいる辺りで、全体的にモダンで色目が少ない家具が置かれている。無駄なものを一切排除したら結果こうなった、みたいな風だ。
 2つ目は猫脚とか、柔らかくて優雅な印象を受ける家具が並んでいる。隅の方にあるのはカンバスだろうか。随分と芸術家肌の奴がいるらしい。
 そして3つ目は、床が底上げしてあって緑色のものが敷き詰めてある。そこが一番異色だった。所謂東洋趣味、というかそのもの。脚が短いテーブルの各辺に対して平らなクッションが配置されていて──ルートヴィッヒと喋っていた男が、その1つに座っていた。真っ黒な短髪に黒曜石を連想させるこれまた真っ黒な瞳。黒いスーツを着ているからそいつは実に見事に黒づくめだった。
 俺がじっと見ているのに気付いたのか、そいつはにこりと微笑んでみせる。う、何かそこはかとなく怖いんだけどこいつ。腹に一物抱えてそうっていうか何ていうか。

「初めまして、私は本田菊。ルートヴィッヒさんの同僚です」

 宜しく、そう言って頭を下げられて俺は非常に、焦った。



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