そんな風に名乗られたことがないものだから、どう返していいやらさっぱり見当がつかない。
困ってルートヴィッヒの側に寄ると、おやおやとでも言うように──菊、だっけ?に笑われる。だってしょうがないだろ、何て言ったらいいのか分かんないんだから。耳も尻尾も垂れさせて広い背中を見つめると、ルートヴィッヒは苦笑を浮かべて俺の頭を撫でる。声にも僅かに笑みが含まれていた。
「済まんな、俺にもまだ余り慣れていないんだ。ほら、挨拶くらいしないか、ギルベルト」
「え、と…初め、まして?」
でいいのかなぁ、俺はルートヴィッヒの後ろから菊の様子を窺う。
菊は俺とルートヴィッヒの死角になりそうでならない位置でガッツポーズをしていた。あ、何か凄くいい笑顔。唇の動きで呟いたことが分かったんだけど、『こみけ』って何なんだろう。ミステリアスな奴。東洋人って皆こんな風だったりするのかな。興味あるけど何か怖いから聞かないでおこう。
菊はちょっとしてから我に返ったようにはっとして、俺に向き直った。満面の笑みのお手本みたいな顔のまま、仲良くして下さいね、と告げられる。こくこく頷く俺に、ルートヴィッヒと菊は実に生暖かい目を向けてきた。ちっこい子供を見るみたいにしないで欲しい。俺だって一応、20かそこらは生きてるんだから。
抗議にごくごく小さく喉を鳴らしてみたけど、それは仕事に本格的に取り掛かった2人には届かなかった。ちぇー、と唇を尖らせながらルートヴィッヒの側のソファに腰を下ろす。好きにしていていいとは言われたものの、余りちょろちょろしてたら鬱陶しいだろう。ここで大人しく色々観察してよう。
そう思って気に入る位置を探していたら、ソファと壁の間に何か挟まっているのが見えた。結構な大きさのものだ。俺は好奇心に駆られて隙間に手を突っ込み、それを引き摺り出す。すぽんっ、勢いよく現れたのは、黄色い塊だった。滑らかな触り心地の布、中は綿じゃなくて細かいビーズみたいなのが一杯詰まってる感触がする。有り体に言えばそれはいやに大きなクッションで、ついでによく見てみたら小鳥の形をしている。
か、可愛いじゃねぇか。何で隙間なんかに押し込められてたんだろ。こんなに、こんなに抱き締めると気持ちいいのに。落っこちて誰も気付かなかったんだろうか。なくなってたら目立つと思うんだけど。
あぁでもそんなこと、どうでもいいや。俺は今、こいつを思う存分もふもふしていられたら幸せだ。もぎゅうと全身を使って体の内側に抱き込んでソファに寝転ぶ。
円らな小鳥の瞳を見つめているうちに、俺は次第に眠りの中へと誘われていった。
ふわふわゆらゆら、意識がゆっくりと浮上していく。何だか周りが煩い気がする。くぁ、と欠伸をしながらうっすらと目を開く。
と、途端に鮮やかなエメラルドグリーンが飛び込んできた。
「あ、起きた」
「ふぁ?!」
間近で上がった声に俺は小鳥クッションを抱えて身を縮める。
何度か瞬きを繰り返してよく見ると、エメラルドはソファの脇に屈んでこちらを見ている奴の瞳だった。それも獣人──多分猫、の。好奇心の強そうな目が俺をじっと捉え、尻尾はゆったりと揺らされている。
「ロヴィー! なぁロヴィ、この子起きたでー!」
西の訛り全開の喋り方でそいつが叫ぶ。ああぁこんな近くでデカい声出すな、煩い。
俺は顔を顰めながら、声が向けられた方に視線を遣る。そこは丁度、部屋の3つのブースの中で誰もいなかったところだった。猫脚家具とか置いてあるところ。そこに、実に見事にそっくりな容貌をした男が2人立っていた。1人は昨日見た、ルートヴィッヒと一緒にいた奴だ。そいつは明るい顔で、もう1人は余り興味のなさそうな顔で、こっちに向かって歩いてくる。
ちょっと、ちょっと待て何これどういう状況なんだ。俺が眠りこけてる間に何があった。というかルートヴィッヒも菊も何でそんなにこにこしてこっち見てんだよ。助けてくれたりとかしないのか。そんな気これっぽっちもないってのか。
うーっと低い声で唸ってみるけど、2人は全く意に介さない。こっち来るな、来ーるーなー。目で必死に訴えても、駄目。こいつら空気読むとかそういうこと出来ないのかよっ。
なんて考えているうちに、ソファの脇には3人が並んでしまった。座面の前部を塞ぐような形で、俺はソファに閉じ込められたようになる。あの、な。これは何の苛めなのか教えて欲しいんだけど。俺が困るのがそんなに楽しいのか。
おろおろする俺を余所に、昨日ルートヴィッヒと一緒にいた奴がのんびりと口を開いた。
「初めましてー、って俺は昨日も会ったけど。フェリシアーノだよ、宜しくね」
ヴェー、と妙な鳴き声と共に微笑まれる。いっそ気持ち悪いくらいに邪気のない奴だな。ここまでだと逆に怖いぞ。
で、そいつ──フェリシアーノが、隣のそっくりさんの袖をくいくい引っ張る。だが隣の奴はじっと俺の顔を見つめて、なかなかリアクションを起こそうとしない。俺の顔に何かついてますかと、何故か敬語で尋ねたい気分だ。不躾だとか思わないのかよ、いいスーツ着てる癖に。どうせいいとこの生まれの癖に。
言いたいことあるなら言えよ。本当に、なぁ、頼むから。
「そんな怖い顔したらあかんよロヴィ。俺はアントーニョ、んでこっちが飼い主のロヴィーノや。仲良くしたってーな」
俺が涙目になるのを寸前で阻止したのは、意外にも一番空気の読めなさそうな猫だった。名乗ったところによるとアントーニョ、か。
ロヴィーノというらしい男の方は、ふん、と鼻を鳴らすとすたすた自分のスペースに帰っていってしまった。ちょっと兄ちゃん、なんてフェリシアーノが言っている辺り、どうやら彼らは兄弟らしい。よく似てるな、双子みたいだ。態度には出してないけど実際は仲が良さそうなのが羨ましい。って兄弟なんていない俺に羨ましいも何もあったもんじゃないか。
「なぁなぁ、自分名前何て言うん?」
「、ギルベルト」
興味津々な様子のアントーニョの言葉に、俺はほぼ反射的に答えていた。昨日貰ったばっかりの、俺の名前。言い終わるや否や輝いていた目が凍り付いたのは、多分気のせいだったんだろう。だって機嫌良さそうに尻尾立ててるし。
へぇそうなん、いい名前やねぇ。
アントーニョが言い、フェリシアーノが相槌を打ち。あれやこれやと質問されてそれに答えているうちに1日は過ぎていった。仕事しなくていいのかと頭の隅で思ったけど、他愛ない話をのんびりとしていられる楽しさに押し流されて、それはあっさり消えてしまった。
当たり前のように普通に喋って同等に扱ってもらえるのが、俺は純粋に嬉しかったのだ。今までそんな風にされたこと、なかったから。ルートヴィッヒに買われたこと、そしてルートヴィッヒの仲間に受け入れてもらえたことに、俺は心から感謝を覚えた。
◆ ◇ ◆
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